ミユキさんはまだ〇〇を知らない。

日常の思うこと、感動したこと、あれこれ。

世界が自分の創造で成り立っているとしたら。

目の前に広がる世界が、もし、自分だけが見えている世界だったらどうだろう。
多くの人と共有していると信じているこの現実は、実は自分の視覚のなかだけで展開しているのだとしたら、どうだろう。


自分の体の背面部に広がる、要は視覚に入らない世界に実態はなく、そこは真っ白or真っ黒で何もない、ただの空間なのかもしれないって考えてみた。
今目の前に見えているパソコンや机や壁や、リビングでゲームをする息子や、部屋で寝ている娘は、視線を外した途端に存在しなくなるもので、私がそこに在ると信じているだけだとしたら・・・。
後ろからポンッと肩をたたく存在が、振り向くまでは形を成さないのだけど、視覚に入った途端、よく知るあの人になるのだとしたら・・・。
どこからか聞えてくる音は、実は自分の脳内で響いているだけで、その発生源を認識しようとした途端、自分が想像しうる形になって目の前に現れるのだとしたら・・・。


ちょっとオカルトチックな妄想だけど、目の前の世界が、自分の創造だけで成り立っているのだと考えると、なんだかゾクゾクすると同時にワクワクもする。
目の前にある人やモノや現象は、見たい、会いたい、ほしい、体験したいと思うからあるのであって、変化も不変も自分次第なのかもしれない。怒りや悲しみや喜びや好きという感情の生まれる原因さえも、自分がそういう気持ちになりたいという思いが先にあって、起きているのかもしれない。

f:id:naemusa:20190703223230p:plain
今夜は新月。新しいことや考えをスタートするにはふさわしい日だとか。

幼い頃、目の前に見える世界は全部、自分の味方だと信じていた時期が確かにあった。だからきっと生きてきた。
大人になった今、いろいろな出来事に遭遇して、いろいろな感情を体験して、自分の世界に愛と平和なんてないって思ってきた時期もあるけど。もう一度、目の前の世界を、自分にとって居心地のいいものとして捉え直したいと思っている。
世界中のラブ&ピースを想像することは、私には難しい。でも、目の前にある小さな世界平和を創造することからなら、やればできる気がする。

私を知る。

先日、Sマザー仲間のEちゃんに誘ってもらって、市の母子家庭等就業支援センターが主宰する「ひとり親応援セミナー“ありのままの私”を知ろう」を受講してきた。
臨床心理士の方を講師に迎え、数種類の心理学ワークを行なう体験型セミナーで、参加者は全員、子育て真っ最中のSマザー。託児もあって参加費も無料。日々の生活や子育てに追われ、つい自分のことを後回しにしがちなひとり親家庭の母や父、寡婦の人が、約2時間という短い時間ながらも、自分自身と向き合い、仕事選びや働き方を考える手がかりを得るのが前提的な目的だ。
私はといえば、数年前に、同じ主宰のメイクアップ講座がまあまあ楽しい雰囲気だったことと、基本的に心理学ワークが好きということもあり、なんか面白そう♪という軽いノリで参加した。


セミナー講師の臨床心理士さんは、精神科外来や私設相談室などで幼児から大人まで対象に、カウンセリングをして約15年。自身も子育てしながら、ひとり親や公立小中学校のスクールカウンセラーも務めている、たぶん同世代くらいの女性だ。穏やかでゆったりとした話し方と、黒板の字が案外小さくてヘタクソ(失礼!)なことに安心感と親しみを覚え、ワークの注意点を話す時には少しピリッとした雰囲気に変わるメリハリにも好感を持つ私。おお、すでに私を知る時間は始まっている感じ(笑)。


面白かったのは「わたしマップ作り」と「私が大切にしていること」というワーク。
「わたしマップ作り」は、優柔不断とか聴き上手とかマイペースとか、行動や考え方の特徴を表す約30個の用語を使って、自分の認識している“私”を知る作業。
大胆、マイペース、素直、仕切りや、怖がり、早とちり、はっきりものを言うなどの用語を、今の自分を表す言葉に近いものとして認識し、おおらか、計画的、話し上手、自信がある、楽天的などの用語は今の自分に足りないものとして認識していた。そして、怒りっぽい、優柔不断、孤独などの用語は、できるだけ自分のなかから無くしたいものとして書き込んだ。へ~、私って自分のマイペースさや大胆さはもう案外、嫌ってないんだな。

f:id:naemusa:20190703002721j:plain
文字から伸びる矢印は、真ん中にある「みゆき」(自分)に
その用語が示す内容を近づけたいor遠ざけたいの意味。

そして、「私が大切にしていること」では、7つの言葉を大切だと思う順にランキングするワーク。自分がなにに優先順位をつけるかを知ることもそうだが、もっと面白いのは、最後に参加者同士のグループワークでグループとしての順位を話し合いで決めるということ。
決して多数決ではなく、主張や妥協をするだけでなく、全員が納得するまで話し合うという作業からは、それぞれの人に、ぞれぞれの時があり、その時ごとに優先するものが変わることもあるのを実感した。そして、特に知り合って間もない関係性の薄い間柄では、揉めごとを避けようと、つい妥協しがちな平和主義な自分自身も垣間見た。

f:id:naemusa:20190703003316j:plain
これ、高校生の子供にやらせたら健康が7位。年寄りほど健康はランキング上位に(笑)。

~ワークの中で出てきた思いや気づきに、正解不正解はなく、それは自分だけではなく相手も同じこと。自分とは違う感じ方との出合いこそが、他者との出会い。~

ワークの説明プリントの冒頭にあった言葉をしみじみと感じながら、終了後は、Eちゃんと打ち上げ的ランチへ。といってもオシャレカフェとかではなく、昼から飲める海鮮焼き居酒屋へ。イカとか大アサリとかツブ貝とかを目の前のコンロでじゃんじゃん焼き、日本酒&ハイボールを次々におかわりしながら、こういう昼飲みがかなり大好きだという自分たちも知った。そのあたりの話はまた今度。

今夜も踊り〆。

ここ数年、飲んだ後に、たまにひとりで“踊り〆”する。
友人や仕事絡みで飲んだ後、なんとなくまだ楽しみ足りない夜とか、まだ遊べるけど飲むという気分じゃないなという日に、ひとりでクラブに行って、踊ってから帰宅する。店内ではあまり飲まない。飲むとしたら最初の一杯に軽いアルコールと、後はミネラルウォーター。
もちろん、一緒に行ける相手がいればそれもいいが、大抵、扉を開けて、音に包まれた途端、ひとりでホールに駆け込む。誰かとゆっくり話ができる空間でもないから、結果、ひたすら踊るのがメインになる。だから、ひとりで行こうが誰かと行こうが個人的にはあまり変わらないのだが、同行者にとってはほったらかしにされる気分かもしれない。だから、最近は特にひとりで行く。
f:id:naemusa:20190628193222p:plain

30代の頃、仕事や遊びで海外に行くと、飲んでばかりじゃつまらない現地の夜に、地元のクラブ(ディスコともいう)を探して遊ぶのがマイブーム化したことがある。
語学が不自由な分、誰かに話しかけることもかけられることも最小限で、ただただ踊って、隣り合わせた人と目が合えば笑顔を返し合って、一瞬だけ一緒にリズムをとって、時々、飲みかけのドリンクを渡し合ったり。そんなやりとりが気楽で楽しくて、私としてはかなり健全な夜の遊び方だった。
その後、国内でも旅先のローカルクラブをクルーズするのが癖になるのだが、ある日、仙台のクラブでいつも通り調子よく踊れない自分の体の異変をきっかけに、1人目の妊娠が発覚。以降、マイブームは一旦幕を閉じたのだ。


10数年の月日は流れ、気づけば、子供たちはすっかり大きくなっている(あたりまえだ)。
そんな時に出会った、テクノ好き&クラブ通な友人Mちゃん。
彼女と初めて出会ったその日に、久しぶりに名古屋の老舗クラブMへ一緒に行って以降、すっかりブーム再燃だ(笑)。今では、Mちゃん無しでもひとりで堂々と…は無理でも、コソコソと遊びに行けるまでに成長?した。そうして年甲斐もなく遊んでいると、ひとりで音を楽しみに来ている同世代もまあまあいるということもわかってきて、さらに調子づいている。


とはいえ、この踊り〆、気にいっているのはわけがある。もともと気ままに踊って遊ぶのが好きだったというのはあるが、近頃思うのは、なんていうか、健康にいいのだ。
まあまあよく飲むタチなので、そのまま帰宅すると大抵、翌日まるっと二日酔いをさまようのだが、踊り〆した翌日は復活が早いということにある日気づいたのだ。
たぶん、思いきり踊って、アルコールを飛ばす勢いで汗をかいて、その前の飲みにどんなシチュエーションがあろうと、いい音&踊り(=運動)で心身ともにリフレッシュできているのだと思う。まさにヘルシー&ビューティー! そしてアンチエイジングにもたぶん朗報!
ただ、毎回、最後はひどい。
店から出る夜明け頃には足腰へろへろ、髪の毛はボサボサ、化粧はすっかり落ちてしまって、まるで蓋を開けた浦島太郎のような変わり果てた姿で這うようにして帰宅する。こんな姿は誰にも見られたくない。ゆえに、ひとりで行くのかもしれない…。

素敵なあなた。

素敵な人には共通した特質があると思う。
それは、どんな相手に対しても、基本的に態度が変わらないこと。
相手が年下であろうと、自分が“先生”と呼ばれる立場であろうと、決して高飛車な言動がなく、むしろ常に機嫌よく、自分が楽しみながら、相手や周りの人を楽しませる。
そして、自分の美意識や世界観をしっかりと持ちながらも、決して完璧ではなくて、いつでも途上にいるような初々しさがあること。
だから、自分の考えや価値観は、ぎゅうぎゅうと押し付けない。そっと机の引き出しから取り出して、いつしか卓上に乗せて微笑んでいるような可愛らしさがある。


昨年から、やたらそういう素敵な年上の人々によく出会う。
50代はもちろん、60代、70代の人もいる。
皆一様に、普段はゆるくていい加減で調子いい雰囲気だけど、イザという時の自分のモチベーションの上げ方もよく心得ていて、必要な時に期待される以上のパフォーマンスを発揮する方ばかりだ。
もちろん、年下で、私よりもずっと若い方でも、素敵な方は数多くいると思うし、実際、自分の周りにもいるが、視線がいくのは、やはり魅力的に歳をとった人々だ。


そんなふうに歳を取りたい。そんな“大人”と呼ばれる人になりたい。
それって、いつまでも子供でありたいという逆の無意識を吐露するようで恥ずかしいセリフでもあるが。
実際、素敵な年上の人に会うと、まだまだ自分がいろんなことを知らなくても大丈夫だし、まだまだ何かに間に合うような気もするのだ。

f:id:naemusa:20190624090758j:plain
ほどよく気持ちよくお酒が飲めるのも素敵な大人の特徴かも。
もちろん、まったく飲めない&飲まないステキングもいます。

夏至と陰陽。

f:id:naemusa:20190622234245j:plain
太陽神・天照大神の荒魂が祀られる
熱田神宮・こころの小径奥のお社へ

2019年6月22日、今日は夏至だった。
私たちの暮らす日本を含めた北半球では、一年のうちで日照時間が最も長い日だ。
幼い頃には、雨さえ降っていなければ、いつまでたっても夕方が訪れず、いつもより長く外で遊んでいられる楽しい日だった記憶もある。


大人になって知ったのは、夏至とは、一年の季節の変化を太陽の動きに合わせて24分割した“二十四節気”のひとつだということ。季節の始まる四立(立春立夏立秋立冬)に挟まれた二至(夏至冬至)二分(春分秋分)として、夏の中間点を表す日であるらしい。だいたい、ここから夏の暑さが本格的になっていくというが、確かにそうかも。
そして、個人的に最も納得できるのは、陰陽説的にいうところの自然界の陽の気が最も高まる日だということだ。


陰陽説とは、宇宙の万物はすべて陰と陽の2つのエネルギー(気)で構成されているという、古い中国発祥の思想だ。もともと陰は山の日かげ、陽は日あたりが原義で、陰陽の二気が一年の季節の移り変わりを支配するともいう。
そういった意味のなかで、夏至は、陽のエネルギーが極まる日であると同時に、徐々に陰のエネルギーへと転化していく節目だ。そして、陰が極まる日が冬至となる。
まさに「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」の転化点が、夏至冬至ということらしい。

f:id:naemusa:20190622233957j:plain
陰陽説のシンボル的な「太陰大極図」は、黒が陰、白が陽を表している。それぞれのなかにある反対色の小さな丸は、陽の中にも陰があり、陰の中にも陽があるという考え方を表していて、なにが陽でなにが陰と分類することに意味などないということらしい。


昔から理屈抜きに、陰陽二気のような2つの相反するバランスこそが、世の中すべての理だと感じている。
善と悪、清と濁、男と女、生と死、朝と夜、対極する2つのものがあるからこそ、生成消滅の変化があり、私たちを取り巻く世界が成り立っているというのは、誰もが無意識に知っているはすだ。
宗教のことをよく知るわけではないが、昔、インドネシアのバリ島が大好きだった頃(今も大好き!)、現地独自のバリ・ヒンドゥー教には、相対する2つのものが折り合いながらこの世界は成り立っているという陰陽的思想が基本にあると聞いて、強く惹かれるわけに納得した覚えもある。

そして、ひとりの人間の性質のなかにも、対極の陰陽世界が同時に存在し、どちらかに傾いたり、水平になったりを繰り返しながら、そのバランスを取ろうとしていくこと自体が生きることの本質だとも思う。



夏至の日は、いわば二極のバランスが一方に傾くピークの日。
太陽の生命力が持つ、エネルギッシュで力強く、動的な恩恵はありつつも、バランス的にはちょっとあやういのかも。
そんなことを考えながら、今日は、太陽神である天照大神さんにお参りしつつ、マクロビなどでいうところの甘くて冷たい=陰性スイーツでクールダウンした。
そういえば、お酒も陰性らしいから、たくさん飲んだ後に激しく踊りにいきたくなるのは、心身を陽性のエネルギーで満たしてバランスを取りたくなるからだろうか…。
やっぱり、まだまだ知らないことはたくさんありそうだ。


f:id:naemusa:20190622234053j:plain
小豆は中庸らしいから、甘み&冷たさで陰性スイーツの定番(?)冷やしぜんざい♪

写真の私。

写真のなかの自分が嫌いだ。
いつから嫌いになったのか。
たぶん、40代以降ではないかと思う。
ある日見た、写真に写る自分が、驚くほど不細工で老けていた。


鏡を見れば誰だって、今日の自分は調子が良さそうとか、今日はなんか疲れた顔してるなどと思うことはあるだろう。私もそうだ。
でも、写真に写った途端、どんな調子のいい時だって一律に、私の顔は絶不調の趣きだ。


時には、目元は涼やかとか、笑顔がチャーミングだとか、粒子が粗い分、細かな難は隠すという現象は、あってもいいんじゃないかな。そういうカメラマジック、たまには起きてもいいんじゃないかなと期待するが、写真の私は毎回、逆の意味で期待を裏切らない。中途半端な情けない微笑や、全開のシワや、二重アゴとか、あぁ…。
傍から見た自分は、こんなにひどいのだろうか。
もしかしたら、これがありのままの私? …そう思うたびに元気をなくす。
じゃあ、優秀な写真加工アプリを使えばいいじゃんという声もあるかもしれない。
でも、あれは、基本的に自撮りが好きな人向けの神器だと思う。私はできる限り、自分で自分の顔写真を見たくないのだから、自撮りなんてもってのほかだ。


最近は「私、写真写りが悪いんです」と言うのさえ、一種のうぬぼれのような気がしてしまう。だから、できる限り、写真は遠慮するのだが、それでも集合写真などでカメラを向けられたら、今日こそはいい笑顔で写りますように!と、もう、ただただ祈る気持ちでレンズを見つめる。
だけど、その祈りはたいてい届かなくて、つい先日も、祈りが足りなかったのだろう一枚にノックアウトされたばかりだ。
正直なところ、そのショックから抜けきれなくてこの記事を欠いている次第ですよ…。


と、散々嘆いている私の顔写真は、Facebookのアイコンにてババーンとさらけ出している。
その写真を知る人からは、いや確かに美人ではないけど、そこまで言うのはおおげさでしょ、ナルシストが過ぎやしませんか?と思われてしまうかもしれない。
それはそうだ。だってその写真は、プロカメラマンである友人が、あまりにひどい私の写真をいくつか見て同情し、取材の合い間に無料で撮影してくれて、結構な加工もしてくれた宝物のような一枚なのだ。実物以上だろうとなんだろうと、私にとってはベストショットだ。奇跡の一枚だ。本当にありがたい。
数多のひどい写真に心折れそうになっても、そのFbのアイコン写真を見るとずいぶんと慰められる。


今のところ、そのFb写真以外の自分の“いい顔”を、私は知らない。


だから、いつかできればもう一枚。
格別な美人でもなく可愛くもなくてもいいから、私らしいって素直に思える“いい顔”の写真がほしい。
なんだ、私、いい感じで歳とってんじゃんって思える、そんなポートレートを手に入れるのが夢。


最後に。
決して自分のことを美人とか可愛いとか若いとか、現実以上に自惚れているわけではないつもりだ。
もちろん、美人とか可愛いとか若いとか言われるのは好きだ。だからいつでも誰にでも遠慮なく言われたい。ていうか言ってほしい。
こんにちわの代わりに「可愛いね」とか、お疲れさま~の代わりに「今日もきれいだね」とか。写真を見ての正直な感想やへたな慰めをいただくよりも、ずっと嬉しい。だから、会ったらまず言って。
褒めて伸びるタイプなので私。

f:id:naemusa:20190621200642j:plain
足とか手とか後姿とか、褒めどころはどこでもいいですよ。

沖縄旅。

まだ知らないといえば、旅先である。
旅行誌の仕事はしていたけれど、それははるか20余年も前だし,
下の子がまだ2歳になるかならないかの頃に、子供2人連れて行ったマレーシア経由バリ島旅行のキツさに懲りてそれ以来、特に飛行機に乗る旅などずっとご無沙汰だったし。
そんな私が、先日、梅雨の合い間の沖縄本島に行ってきた。


天気予報は曇。1日くらいは降られるだろうと覚悟していたけれど
持参した折り畳み傘を開くことはなく、むしろ真夏並みの陽光に安い帽子を現地調達したほどに、天候には恵まれた。
陽の光が照らし出す沖縄の景色は、青は青、緑は緑、白は白。
混ざりけのない鮮明さで存在していて、もう文句なしに美しい。どこかで見たガイドブックそのまま。いちいち感動する。

f:id:naemusa:20190620174644j:plain

でも今回、私の心をぎゅっとつかんだのは、なんていうか、沖縄の日常の断片みたいなものだった。
昨夜まで降っていた雨の湿気が残る午前中の空気や、コンクリート造りの建物の色褪せて崩れかけた風情や、古いアメ車が似合いそうなバーガーショップのドライブスルーの造りや、ちょっと乱暴なくらいのXナンバーの運転や、にこりともせずにブルーシールアイスを売るウチナンチュー顔のおっさんや、町を歩く住人らしき人種の多様さなどなど…。


書き上げればキリがないのだけど
いわば、ふだんの自分の生活範囲では見ない、感じない、馴染みのない
ちょっと異国チックな空気感や風景や喧騒が、自分のテンションをぐんぐん上げていった。
東南アジアを頻繁に訪れていた昔を懐かしく思い出す、ということもあったのかもしれない。沖縄には、その亜熱帯気候や歴史的な背景から、どうしたって“日本離れ”した雰囲気があるのは否めない。

f:id:naemusa:20190620174713j:plain


考えてみれば、この世の中で一番好きな食べ物は、ジーマーミー豆腐だし(←マジです。今回はあちこちで4種類食べて、食べ切れなかった3種類を買って帰った。)
明日のことを考えずに飲めるなら、アルコールは泡盛を第一選択にしたい。
もしかして、私は沖縄に住んでもいいのかもしれない…。
そういえば、好きな旅先は大抵、途中から暮らすシュミレーションをするのがクセだ。


久しぶりの旅は楽しい。
特に子供目線を考えなくていい旅は、今だから、ようやくできる気がする。
その場所の持つ独特なエネルギーに酔うような旅をしたい。